💛✨ドラクエブログ40章:知る価値マスト❢『DQ開発の推移』評論■DQマニアは飯抜き超必見!DQの肝について語るゾぉ!  #ドラクエ #アニメ #漫画 #雑記 #ブログ

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★『ドラクエ開発の推移』

●開発の推移について・・・・・・
エニックスのプロデューサーである千田幸信は、1985年に「ドアドア」でファミコン参入後、
パソコンで発売されていた堀井雄二のアドベンチャーゲーム作品「ポートピア連続殺人事件」の
ファミコンへの移植を決定し、堀井と、チュンソフトのプログラマ中村光一に移植作業を依頼する。
堀井と中村の両氏は、1983年のエニックスの第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストの授賞式で
知り合った仲でもあり、製作中に意気投合し、パソコンで流行していたRPGについて熱く語り合う仲に
なっていったのだった。
この際にファミコンでのRPGの製作が可能となる重要なアイディア「ふっかつのじゅもん」の構想が
生まれのだった。RPG製作の前準備としてファミコンユーザーにコマンド入力に慣れてもらうため、
同作のPC版は文章入力方式だったが、一転しコマンド入力式に切り替えたのだった。

この移植作業が堀井と中村にとって非常に楽しいものであったことから、
二人はこの組み合わせでの仕事をもっとやりたがり、堀井は千田にファミコンでのRPGの製作を
提案したのだった。
当時のファミコンはシューティングゲーム・アクションゲーム(アクションRPG)などが主流であり、
当時本格的なRPGはマニアがパソコンでやるジャンルという扱いであったため、
エニックス社内においては反対の声もあったが、最終的に千田がゴーサインを出し、
ファミコン初の本格的RPGの開発・製作が始まったのだった。

二人がはまっていたパソコンのRPG(『ウルティマ』、『ウィザードリィ』)の強い影響下に、
少数のスタッフで開発・製作が行われたのだ。基本構造は『ウルティマ』型のフィールドと
『ウィザードリィ』型の戦闘システムであるが、当時はビジネス用のソフトにしか
使われていなかったマルチウインドウを導入することで独自色を打ち出した。


なお、堀井はジャンプのゲーム紹介記事「ファミコン神拳」の連載と並行しながらをドラクエを
製作していたのだった。
同記事でRPGの面白さを説明しつつ、最終的に自分がRPGを出した事に関して、後に
「今でいうとステマ」ともコメントしている。
なお、ファミコン神拳のスタッフは、同誌の読者コーナー『ジャンプ放送局』の主要スタッフ
(なおかつ堀井とは友人)が兼任しており、初作のロゴデザインは『ジャンプ放送局』の
榎本一夫が手がけたのだ。
また、土居孝幸氏も漫画やイラストなどを描いている。

堀井が仕事仲間でもあり、『週刊少年ジャンプ』(集英社)で『DRAGON BALL』を担当していた
編集者の鳥嶋和彦に相談を持ちかけた際、鳥嶋の騙しによりキャラクターデザインとして
鳥山明を起用することが決まったのだった。
鳥嶋は鳥山明が「『ポートピア連続殺人事件』に興味を持っており、
ゲームの仕事をやりたがっている」という嘘をついた。。。。
鳥山と堀井との対談によれば「ゲームの仕事をやりたがっている」という発言は騙しであり、
自身はゲームに関してはてんで無知だったと鳥山は話していた。
鳥嶋の騙しの意図は明らかではない(堀井らは「刺激を与えたかったのではないか」等と
推測している)が、事実上この決定により「ドラゴンクエスト」は『週刊少年ジャンプ』系という
印象が強くなり、同誌上で開発中のドラゴンクエストの画像を初披露するなど、
長年初披露は『週刊少年ジャンプ』という体制がとられることになったのだった。
ちなみにこの体制は、エニックスが1991年に『月刊少年ガンガン』を創刊した以降も
変わっていないのである。

いったん完成に近づいたものの、内部スタッフが作ったBGMが「ずっと聴いていると飽きてしまう」という
事態が発生した。
そこに急遽、ゲーム好きが昂じてエニックスと繋がりができていた作曲家のすぎやまこういちが参加し、
「聴き減りのしない音楽」という方針のもと、1週間で楽曲を製作したのだった。
なお、千田幸信は鳥山やすぎやまを引き入れた理由について
「(アマチュアの空気で作られている現場に)プロを入れたかった」としている。。。。



堀井雄二、中村光一、鳥山明、すぎやまこういちらの手によって『ドラゴンクエスト』は完成し、
1986年5月に発売されたのだった。
当初は売り上げが芳しくなかったが、完成直後から『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』のゲーム製作に
とりかかっている。
なお、ドラクエ1は口コミによりじわじわと売れ始め、最終的に150万本を売り上げる
ヒット作品となったのだった。

ファミコン時代は容量との戦いでもあり、徹底的な容量削減のため、数多くの企画・演出が
泣く泣くカットされる背景があった。
また、作数を重ねるたびにスタッフが激増するなど、製作環境が大幅に変わり、それらに伴い、
プログラマ間での諍いが絶えなくなってしまったことから、中村光一はプログラマの仲裁や
管理をするディレクター作業がメインになり、スーパーファミコンで発売された『V』を最後に
「割に合わなくなった」としてチュンソフトごと開発から手を引くことになったのだった。

『V』『VI』『VII』はチュンソフトの退社組による山名学率いるハートビートが担当した。
『VIII』『IX』は『ダーククロニクル』に惚れ込んだ堀井の依頼により、レベルファイブが担当。
『X』では初めて自社での開発となっているのだ。これはネットワーク対応ということで
インフラ構築などの運営の都合上から内製のほうが好ましいのでは、、と判断されたためである。
なお、オルカなど外部の開発会社の協力は得ている、との事。

ファミコン・スーパーファミコン時代に容量問題で内容削減が図られていたのが、
PlayStation時代になると容量を気にしないで作れる環境になり、
開発期間が長期間化するようになっているのだ。

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